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| 御本茶碗 大徳寺十二代管長 浩明老師書付 清水日呂志造 | ||
| 商品説明 | 品名 御本茶碗 大徳寺派十二代管長 方谷浩明老師書付楽山窯 清水日呂志造 桐共箱入 古物品 寸法 口 径 13.7cm 高 さ 6.7cm 高台径 5.1cm 説明 茶碗全体に、ほど良く御本が現れた、三重県の茶陶 清水日呂志氏ご自身の作品です。 胴から高台脇に轆轤目が見られ、竹の節の削り出し高台に仕上げられています。 大徳寺派十二代管長 方谷浩明老師が、箱の蓋裏に書付をされています。 経年品、状態は良いですが、使用感、傷、汚れ、箱等にやけが若干ございます。 写真でのご判断でお願い申し上げます。 水漏れ検査済み。 写真の撮影の関係で、影などの映り込みにより、現品と若干色合いが違う場合がございますので、ご了承下さい。 方谷 浩明(1913〜1995) 大徳寺五一二世 道号は浩明、法諱は宗然。 室号桃源室。 俗姓 浜、のち方谷。 福岡市西区姪浜出身。 昭和3年、崇福寺の小南老師と法縁を結ぶ。 翌年、福岡県糸島郡安養寺の方谷貫道について得度。 同9年、大学在学中に、久松真一教授に師る。 同12年卒業後、九州に帰り心宗庵、崇福寺に寄宿し大学に研究生として通う。 同14年相国僧堂に掛搭。 山崎大耕・大津櫪堂両老師に参じ、櫪堂老師に嗣法する。 同年、僧堂在錫のまま安養寺住職を拝命。 同23年花園大学講師。 同27年5月、崇福僧堂師家。 同41年には大徳寺派十二代管長に就任。 横嶽の古跡瑞雲寺の復興に尽力。 同55年、師家退任後は瑞雲寺に閑栖する。 平成7年1月30日遷化。 世寿82。 昭和四十二年に表千家十四代お家元(若宗匠・宗員の時)に「而妙斎」の斎号を与える。 (茶の湯(茶道)、特に「侘び茶」の世界で、「茶禅一味」が大切にされており、古くから茶の湯を極めるには禅に参じるべきとされ、茶の湯が「道」としての根拠になっているとされている。 ) 茶禅一味【ちゃ ぜんいちみ 】 茶道の心と禅の極意は一つであること。 茶道は禅から起こったものであるから, 求めるところは禅と同一であるべきである, の意。 茶禅一致。 管長【かんちょう】 神道または仏教で、一宗一派を管轄する長。 一八七二年(明治五)政府が制定。 参禅 さんぜん 座禅して禅を修学すること。 特に, ある師の指導の下に禅の修行をすること。 (表千家十四代お家元而妙斎宗匠は、方谷 浩明老師に参禅しました。 ) 得度(とくど) 仏教への信仰を深めるため、師と誓いを結び仏弟子となる儀式。 僧侶となる出家得度と、在家のまま居士となる在家得度があります。 斎号(さいごう) 得度の際、師より授かる仏弟子としての名前。 「斎」は本来部屋を意味し、修行のため与えられた室号がその人自身を指す名前となった。 師家(しけ) 伝灯の正師に嗣法した人で、参禅者の指導の任に当たる人をいう。 老師(ろうし) 師家に対する尊称。 年寄りという意味ではなく、伝灯の正師に嗣法した人で、参禅者の指導の任に当たる人をいう。 親しく教えを受けた者は、老漢と呼ぶこともある。 再住大徳 法階の法の位で一番高い位。 再住大徳に選ばれると、歴代大徳寺住持の世譜に残り、永久に記録される。 大徳寺【だいとくじ】 京都市北区紫野にある臨済宗大徳寺派の大本山。 山号は竜宝山。 一三一五年(正和四)から一九年(元応一)ころ成立の妙超(大燈国師)の大徳庵に始まる。 開基は赤松則村。 花園上皇・後醍醐天皇の祈願所。 一五世紀には一休らによって再興。 堂塔壮大で、千利休・小堀遠州らが山内に庵を結び、貴重な美術品を多く蔵。 真珠庵・聚光院・大仙院などの塔頭(タツチユウ)にもすぐれた建築・庭園・障壁画 を遺す。 臨済宗大徳寺派 黄嶽山 崇福寺 博多区千代町の北側に博多三刹の一つ、崇福寺がある。 開山の円通大応国師(南浦紹明/一二三五ー一三〇八)は、鎌倉に建長寺を開いた蘭渓道隆の高弟のひとりで、正元元年(一二五九)に二十五歳で入宋して、杭州浄慈寺にて虚堂智愚に師事し、楊岐派の正派を携えて文永四年(一二六七)に帰朝した。 博多に上陸し、太宰府の崇福寺に迎えられた。 崇福寺は仁治元年(一二四〇)太宰府僧随乗坊湛慧禅師が創建し、翌年には聖一国師が開堂。 そして文永九年(一二七二)に大応国師が開山となっている。 寛元元年(一二四三)後嵯峨天皇の勅命によって官寺となり、室町時代には五山・十刹の寺格に列せられ、隆盛を極めたが、天正十四年(一五八六)に兵火に罹り多くの堂宇・什物を焼失し、寛長五年(一六〇〇)に福岡藩主黒田氏によって現在の博多区千代町に移築、再興され、黒田家の菩提寺とされた。 歴代藩主の墓や博多三傑の一人、島井宗室の墓など、ゆかりの人々の墓がある。 県指定文化財となっている崇福寺山門は福岡城から移築されたものである。 大徳寺派では本山のほか、堺・南宗寺と当寺に専門道場が置かれている。 清水 日呂志 (しみず ひろし) 1959年 祖父楽山につき修業 1961年 高取、丹波、萩にて修業 1969年 三重県菰野町切畑に登窯築窯 1971年〜1973年 韓国にて茶陶指導および研究 1974年 韓国釜山近郊金海郡に金海駕洛窯築窯 1981年 三重県菰野町尾高高原に尾高焼楽山窯築窯 1986年 韓国河東郡沙器村に沙器駕洛窯築窯 1992年 韓国全北茂朱郡に茂朱駕洛窯築窯 1995年 尾高焼楽山窯に韓国式登窯築窯 東京日本橋三越本店ほか、全国各地で個展開催 遠州流職方向栄会会員 金鱗会会員 清水楽山 大正窯 1894 ( 明治27 )〜 1969 ( 昭和44 ) 三重県四日市出身。 15歳で万古焼の修行をした。 二十二歳のとき自宅に築窯(大正窯)。 二十八歳で当時の万古焼は大量生産であったため個性を発揮出来ず、「大正萬古」に見切りをつけて、京都・五条坂でやり直しの修業をする。 その後は各地方の有名窯をめぐり製法を学び、帰郷して自宅・三重郡菰野町切畑に登窯築窯。 後に遠州流小堀宗明家元により御用窯に指定され、「宗楽」の称をうける。 また後年は、(諸窯丹波 森本陶谷窯・高取静山窯等)の指導にも力を入れた。 印銘 「楽山」枠なし大・小印。 「宗楽」七宝印。 釘彫「楽山」を用いる。 御本 ごほん 胎土の鉄分が窯変して淡い紅梅色の班紋が現れることがあり、その斑紋を御本という。 (上釉に細かいピンホールができ、そこから窯のなかで空気が入り込み胎土にふくまれる鉄分が酸化して赤く発色したもの。 ) (日本から朝鮮へ、御手本(型紙絵)を示して注文された高麗茶碗のことも御本と呼ばれる。 ) 高麗茶碗(こうらいちゃわん) 高麗時代末期から朝鮮王朝時代にかけて朝鮮半島で焼かれた茶碗の総称。 種類としては雲鶴、狂言袴、三島、刷毛目、粉引、雨漏、堅手、井戸、呉器、熊川、斗々屋、蕎麦、柿の蔕などがある。 桃山時代後期には日本からの注文茶碗があり、御所丸、金海、伊羅保、彫三島などが焼かれたとされる。 江戸時代にはさらに注文が盛んになり、対馬藩宗家の管理下に釜山の和館窯で御本茶碗が焼かれている。 竹節高台 高台外部の上下を箆などで削った際にできた削り残し部分をいう。 金鱗会 茶どころ名古屋の伝統をいかし、茶道の流派を超えて茶道工芸の研鑽と技能の向上をめざす作家の集まり。 共箱【とも・ばこ】 箱に納めた書画骨董(コツトウ)で、作者自身が記した箱書(ハコガキ)がその箱の蓋の表か裏に作品と共 にあること。 また、その箱。 箱書(はこがき)書付・箱書付 書画、器物の蓋の甲や裏、箱側面や茶杓の筒にその物の名称、作者などの名や極め書き、器物の銘などを書き記し、署名、捺印などをしたもの。 | |
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